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来るべき時を求めて 

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カエターノ・ヴェローゾ 『ジー・イ・ジー』

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カエターノの最新アルバム『ジー・イ・ジー』
前作『セー』に引き続き息子の年ほど離れた若いミュージシャン3人を携えて製作したもの。
これを聴きながら彼らがまたパリに来ることを首を長くして待っている。
パリで彼らを見たのは2年位前?
『セー』を引提げてのゼニットでのライブ。
会場に響き渡るカエターノの声は美しかった。
その後発売された『セー』のライブDVDは何度も何度も見た。
『セー』のサウンドはシンプルで潔い。
これを深みがないと言う人もいたけれど
60過ぎて敢えてベーシックな音楽をやるカエターノは
私には最高に格好良くみえた。
洗練されたサウンドで武装したカエターノももちろんいいが、
ギター一本の素っ裸のカエターノはとても刺激的だと思う。

私が住んでいるアパートの上の階にアラブ系の一家が住んでいて、
そこのご主人が現在の白髪交じりのカエターノに似ている。
いつもエレベーターや建物の入り口でばったり会うと少しどきどきする。
カエターノがアラブ系かどうかは分からない。
でもきっと色んな血が混じっているのは確か。
特定不明。
カエターノの特定不明というか複雑さは彼の性格にも見られる。
ライブではくるくる表情が変わる。
ニコニコしてリラックスしているのかと思えば、
突然鋭い顔つきをして観るものに強度の緊張を強いる。
単純明快で美しい歌詞を書くときもあれば、
あらゆる固有名詞を引用したシュールな歌詞も書く。
自叙伝ではもっと簡潔に書けそうなことを
敢えて難しい言葉でこねくり回して書く。
そんな頭でっかちなインテリジェンスと、
この世で一番美しいと思えるようなメロディーと詩をさらっと書いてしまう天性の才能。
その両方を持ち合わせた複雑で魅力的な彼に私は心底夢中だ。
# by saudade1982 | 2010-03-02 08:44 | 音楽

デヴィッド・ボウイ 『ハンキー・ドリー』

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デヴィッド・ボウイの1971年に発表された4thアルバム『ハンキー・ドリー』
ボウイのアルバムはCDやレコードやらで何度も再発されているけれど、
私が持っているのは東芝EMIのボーナストラックつきのCD。
ボウイのアルバムはレコードでも持っているのですが、
このアルバムに関してはCDしか持っていません。
このCD、日本語の解説と歌詞の訳も付いているのだけれど、
この歌詞の訳、ちょっとひどいのです。
それはそうとこのアルバムは私が買った初めてのボウイのスタジオアルバムのひとつ。
中学校1年の冬、お正月に貰ったお年玉で買いました。
このアルバムに加え、ボウイの『ロウ』と『スペース・オディティ』も一緒に買いました。
その頃に一度にアルバム3枚も買うなんてものすごいことだったので良く覚えています。
ボウイの存在を何で知ったのかちょっと思い出せないのですが、
恐らくはヴェルヴェット・アンダーグラウンド→ルー・リードの『トランスフォーマー』という流れだったように記憶しています。
ボウイのこれらのCDを買う前に、ボウイのベストアルバムを買ったのですが、これが中1の私にはよく訳が分からなかった。
何故かというとボウイは音楽のスタイルや歌唱スタイルが年代によって変わり、非常に幅広いので、一度に各時代の代表曲を聴くと全部違う人の曲なのではないかという錯覚をしてしまい、消化不良になってしまったのです。
それでも諦めずにスタジオアルバム3枚を買ったのは、
多くの人がボウイのことを凄いと言っていて、その理由を探りたかったから。
結果スタジオアルバムを買ったのは大正解。
私の人生が大きく狂うきっかけとなりました(笑)

このアルバムの素晴らしさについては多くの人が語っているので
私が敢えて付け加えることはないです。
とにかく多くの人に『ジギースターダスト』とはまた違うボウイの魅力に触れて欲しいと思います。
# by saudade1982 | 2010-01-18 10:51 | 音楽

ジャン=リュック・ゴダール 『パッション』

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『パッション』
PASSION
1981年、フランス、87分、カラー
監督: ジャン=リュック・ゴダール
出演: イザベル・ユペール
   ハンナ・シグラ
   イエジー・ラジヴィオヴィッチ
   ミシェル・ピコリ

解説

工場と撮影所。資本家階級と労働者階級。プロデューサーと撮影所のスタッフたち。搾取する側とされる側。。。冒頭の不穏な青さを帯びた曇り空の中を断絶するように流れる飛行機雲はこれらのマルクス的な二項対立を予告しているのか。しかしパッションという情熱と受難という両義性を孕むタイトルを持つこの映画は、劇中の映画のタイトルが同じくパッションであるように、向かい合わせの鏡がイマージュを反復する様に似て、二項対立的な安易なストーリーテリングに甘んずることなく、我々の社会に存在する多種多様な顔、声、言語を共存させ、有機的なイマージュと音響の連続とでもいうような様相を呈している。

映画の撮影所。レンブラント、ドラクロワ、ゴヤなどの絵画の名作の再現。それは多くの映画監督が夢見たことだろう。「光が違う」と映画監督のジェルジーは言う。映画作りは1人ではなく、共同作業だから、求めている光に到達するまでには各人の意思伝達のいざこざが生じる。プロデューサーは予算の超過を責め立て、やれこの女優を映画に使えと監督に強要する。撮影所内の撮影スタッフや役者達のサイレント映画さながらのドタバタ劇。ゴダールは美しい絵画の再現と、美しさとは程遠い映画作りの現場を交差させて見せることによって、我々が映画に抱く幻想を打ち砕く。映画作りに尽きない悩みを知らしめるために。それは映画のクリエーションに於ける受難と情熱、プロダクションに於ける金と権力の問題。ゴダールは政治映画を撮ったあとに商業映画復帰作といわれるこの作品で敢えてそのことを突きつける。

またこの映画は、ポーランド人を監督に設定していることから、当時のポーランドの戒厳令などの政治的背景を考慮して鑑賞することも可能だろう。しかし、その映像と音響の感嘆すべき躍動感を前に、我々は頭脳的解釈を超えて五感を震わさずにはいられないのである。あらゆる顔の出現が、滑らかな画面を拒絶して凹凸を生み出し、ハンナ・シグラのドイツ語訛りのフランス語や、イザベル・ユペールの吃りを伴うフランス語、時折発せられるドイツ語とポーランド語、ミシェル・ピコリの咳が多声音楽の如く構成される。工場の背景にはクラシック音楽と機械の音が交互に響き、撮影所では絵画の再現の美しさに夢見心地な観客を現実を振り戻すかのように罵声が交差する。俗的なものと神聖なものが隔たりなく同等に扱われ、若い娘のヴァイオリンのような美しい裸の背中のたおやかさと、男に後ろから攻められて身体を縦に激しく動かす女の図が同次元で掲げられる。「美」がありきたりで紋切り型に陥らないように自ら創造した美しいものを醜いもので遮ることで「美」に挑む。そのような自己否定によって創造するという自身に難産を強いるやり方は半ばヒステリックであり、ゴダールの映画作りの苦悩を想像させる。

そして登場人物たちがしばしば「物語が必要だ」「物語が存在する」「物語がない」と発言するように、映画に於ける物語の存在と不在が問題になっている。そもそもこの映画には極伝統的な意味でのドラマツルギーが欠如している。つまりは話の筋を分かりやすくするための説明的な映像、言葉、音響といったメリハリがないのだ。あるものにとっては映画監督の光の探求についての映画であり、またあるものにとっては映画監督と彼をめぐる二人の対照的な女性についての映画なのだ。それはある種物語を進行させる中立的な視点の不在、つまり物語の作者の恣意的な視点の不在といえる。映画芸術においては、文学における作家の焦点や登場人物の焦点から物語が語られるのと違い、観るものが映画の中の現実を自分の視点でダイレクトに見ているような幻想を抱くことができるが、実際は映画の話の筋が容易に追える時点で、実はそれは映画の作り手の思惑に乗っているのだ。ゴダールはそのことを自覚し、観客の視点=映画の作り手の視点という物語の図式を解体し、映画に於ける物語の存在/不在の可能性をめぐって再構築しているのである。また、かつて『勝手にしやがれ』のラストでベルイマンの『モニカ』に倣ってジーン・セバーグがカメラに、すなわち観るものに視線を投げかけたように、劇中イザベル・ユペールはカメラ/映画を観るものを見つめ、映画の内と外の境界線をぼかしてしまう。このようにして物語の存在/不在、映画の内/外という次元が立ちはだかることによって、上述したような様々な登場人物、声や言語、騒音、音楽、そして工場、撮影所もしくは外の村や川の出現は画面の構成要素として意味のあるもの/無意味なものという分け隔てからも解き放たれる。ここで笑ってここで泣けというように、観客の感情を司る装置がしっかりお膳立てされた親切丁寧な映画の娯楽性を否定し、観客を突き放して、各々が問題意識を持って映画を観ることを強いるのである。

映画は必ずしも物語を語ったり、メッセージを伝えるためだけではなく、そこを超えて映画とは何か、映画で何が出来るのかという問いを映画を通して投げかけることも出来る。フェリーニが『8 1/2』(1963年)でフェリーニ自身をを投影したようなマストロヤンニ扮する映画監督の「映画が撮れない」苦悩そのものを映し出すことによって結局映画が成立しているパラドックスに似て、従来の映画の美を否定することで更に新しい美を創造するゴダールは映画表現の可能性を模索し、更に高次元へと推し進めようとしているのである。
# by saudade1982 | 2010-01-13 07:51 | 映画

ジャン・ユスターシュ 『ママと娼婦』

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『ママと娼婦』
LA MAMAN ET LA PUTAIN
1973年、フランス、3時間40分、白黒
監督 ジャン・ユスターシュ
出演 ジャン=ピエール・レオ(アレクサンドル)
   フランソワーズ・ルブラン(ヴェロニカ)
   ベルナデット・ラフォン(マリー)
   イザベル・ヴェンガルテン(ジルベルト)


あらすじ

カフェで新聞、本を読むのが日課の無職のアレクサンドル。ある朝、ジルベルトに結婚を申し込むため出掛けるが、その申し出は断られる。「フィアンセがいるの」
同じ日、カフェ、ドゥ・マゴにいた看護婦のヴェロニカをナンパする。
アレクサンドルは自分の家がない。現在転がり込んでいるのは年上の女性マリーのアパルトマン。マリーはブティックを経営している。
アレクサンドルの告白。「ジルベルトは僕の子供を妊娠したんだ。でも中絶してしまった。そしてその中絶にあたった医師と結婚するんだ・・・。中絶医師は現代のロビン・フッドだ」
ヴェロニカとマリー。アレクサンドルは二人の女性に愛される。ディスコで泥酔して朝の5時に二人のもとに転がるヴェロニカ。自分の目の前でセックスする二人に耐えられなくなり、睡眠薬を大量投与して挑発してみせることもあったマリーはある時は二人の関係を見守る。そんな不思議な三角関係が展開される。
泥酔状態のヴェロニカの支離滅裂な独白。「あなた達二人が大好きよ。・・・この世に娼婦なんていないの。誰とでもセックスするからと言ってそれをあばずれとは言わないわ。・・・愛し合っている者同士のセックスがこの世で一番美しいのよ。子供をつくるということは世界一素敵なことなの」
その夜、アレクサンドルは泥酔したヴェロニカを彼女の宿舎まで送る。宿舎の廊下でヴェロニカは言う。「多分あなたとの子を妊娠したわ、もう帰って!」彼女の言葉通りアレクサンドルは宿舎から出たが、すぐに引き返した。
ヴェロニカの部屋。「帰ってよ、鍵を返して!」「もう沢山だ!僕のこと、愛してるか」ヒステリックに笑いながら「ええ」とヴェロニカ。「僕と結婚してくれるか」「ええ」ヴェロニカは嘔吐し、アレクサンドルは息を切らし、床に座り込む。


解説

「68年の五月革命以降の精神を最もよくとらえた作品」と言われるこの映画は、1973年のカンヌ映画祭での初公開から30年以上たった今でもその魅力を失っていないように思われる。80年代生まれの私は当然五月革命を経験していないし、それ以降のパリのこともよく知らない。しかし、この映画が描く恋愛の苦悩、不安、ニヒリズム、性の解放、中絶といったものは、21世紀に生きる我々にも鮮烈に迫ってくる。

タイトルは『ママと娼婦』だが、アレクサンドルを見守るマリーがママで、誰とでもセックスするヴェロニカが娼婦と、はっきりと役割分担できるわけではない。実際にはママ・娼婦と二分化することは不可能で、マリーにヴェロニカに、そしてジルベルトにもそれぞれ母性や娼婦性を見出すことができる。監督自身は「このタイトルは挑発のためです」と述べている。

アレクサンドルは昔の流行歌を聴き、プルーストの『失われたときを求めて』を読む。そこに描かれるのはノスタルジー、昔の古き良き時代への憧憬である。自分の生きたことのない時代に思いを馳せるのである。それは現実逃避なのだろうか。アレクサンドルは仕事もなく家もなく、ただカフェに行って新聞や本を読んだり、友達と他愛もない話をしたりとだらけた生活を送っている。カフェにいた昔馴染みの友達はもういなくなってしまった。ジルベルトとの恋愛も終わってしまった。

ジルベルトの中絶、マリーのアパルトマンでの生活、ヴェロニカとの出会い、三角関係、そしてヴェロニカの妊娠。カメラはアレクサンドルの変遷を丁寧に追う。映画の前半、アレクサンドルは饒舌になることによって、自分の身を守っていた。しかし後半になると、ヴェロニカが喋りっぱなしで、アレクサンドルはそれを無防備に聞いているだけだ。それは自分のことしか考えないエゴイストから、他人の話に耳を傾ける大人への変化なのか。それともヴェロニカに吸血鬼の如く、どんどん生気を吸い取られていってしまっているのか。ラストシーンのアレクサンドルの表情には、二人の女の間で揺れる青春時代にピリオドを打ち、ヴェロニカと結婚し、家庭を築く、つまり大人になることに対する漠然とした不安が伺える。

技巧的な映像は一切ない。ただ膨大な量の会話、時間と共に変わる俳優達の表情があり、据えられたカメラはそれを収めるという、単純かつラディカルな方法で映画は進行する。3時間40分という長さはその人物の変化をとらえるために、必然だったのである。
# by saudade1982 | 2010-01-07 08:02 | 映画

セイゲン・オノ コムデギャルソン Vol.1

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こちらはセイゲン・オノ(小野誠彦)がコムデギャルソンのショーのために手掛けたサウンドトラックのVol.1です。
ちなみにVol.2も持っています(こちらはVol.1とはまた違った雰囲気)。

買ったのは中学2年の時、中古CD屋で。
CDを買う前にテレビでコムデギャルソンのパリコレのショーを見て、
非常に感銘を受けました。
そのショーではペチコートの上に透ける素材の刺繍を施したワンピースを重ね、
足元は靴下にサンダルという大人の女性と少女の両方の部分を併せ持ったスタイルが提案されていました。
ショーの音楽は後に大好きになるアストル・ピアソラが使用されていて、
服の静かに漂わせる官能的な雰囲気にぴったりでした。
そんなわけであんな素敵なコレクションを発表したコムデギャルソンの世界が音になったらどんな感じだろうと、期待に胸を躍らせてCDを買いました。

当時私はデヴィッド・ボウイとゲンズブールに夢中で、
70年代ロックを中心に聴いていました。
同時にワールドミュージックへの興味もありました。
そこで聴いてみたこのCD、
それまでに聴いたことのない音楽でびっくりしました。
CDに付属のライナーによれば、
川久保玲はセイゲン・オノに
「服がきれいに見える音楽を」
「誰も聴いたことのない音楽を」
という注文をしたそうです。

印象としては無国籍で(アフリカ音楽風のトラックとロックンロールのトラックもありますが)
でも決して難解な音楽ではなく、どこか懐かしさも感じさせるなんとも形容しがたい音楽。
聴く者のイマジネーションを刺激する豊かな音楽。
国境を越え、ジャンルを超えた自由な音楽。

参加メンバーも凄いです。
アンビシャス・ラヴァーズ、ジョン・ゾーン、
ジョン・ルーリー、フレッド・フリスといった
NYアンダーグラウンドシーンで活躍する面々に加え、
アフリカ系の名前やポルトガル系の名前も見られます。
1987年にニューヨーク、パリ、東京で録音されたとあります。
今から20年前の音楽なのに、古さは感じさせません。
むしろ新しいとか旧いとかそういうのを超越しているように思います。

で、この音楽がコムデギャルソンの服を喚起させるかというと、させると思います。
この音楽によって、コムデギャルソンの服の先鋭性、質の高さ、豊かさが
よりダイナミックに伝わったのだろうと想像します。
だけれども、既述のように、
音楽自体がとても素晴らしいので、
独立した音楽としてとても楽しめます。

それにしても、こんな素晴らしい音楽を作ったセイゲンオノも凄いですが、
彼に注文した川久保玲のmaster for thinkingとしての存在は凄まじいと思います。
# by saudade1982 | 2010-01-05 08:52 | 音楽