マルグリット・デュラスは1969年に『破壊しに、と彼女は言う』という小説を発表し、その後すぐに小説を映画化した。デュラスはそれ以前に『太平洋の防波堤』、『モデラート・カンタービレ』、『ヒロシマ、モナムール』『ロル・V・シュタインの歓喜』といったデュラスの初期の代表作とも言うべき作品群を発表している。また、この頃までにデュラス自身の小説は他の監督たちによって数多く映画化されてきている。デュラス自身も『ヒロシマ、モナムール』(アラン・レネ監督、1961年)『かくも長き不在』(アンリ・コルピ監督、1966年)等の脚本を手掛け、1966年には『La Musica』という自身の戯曲をポール・セバンとの協力で映画化しているが、『破壊しに、と彼女は言う』で、デュラスは初めて単独で監督を手掛けることになった。
デュラスは小説の執筆の段階で、映画を作る予定はなかった。ただし、読んだり、映画化したり、舞台化したり、もしくは捨ててしまえるようなものを目指したという。モーリス・ブランショはこの考えを、自身の『破壊しに』という論文で「『破壊しに』は本なのか、映画なのか、それともその中間にあるものか」と、『破壊しに、と彼女は言う』をあるひとつの概念ととらえ、形而上学的に発展させた。
小説は、その短文、もしくは一語で構成された簡素で且つ即物的な文体が特徴的で、演劇の台本を思わせる。登場人物たちはすぐにその名を明かされない。『ヒロシマ、モナムール』の男女を思い起こさせる「彼」、「彼女」は、登場人物間の交換可能性を孕んでいる。
物語は主にシュタインという登場人物の視点に焦点を合わせているが、突然のゼロ焦点化、外的焦点化によって自由な視点の運動が行われている。そして語り手による自由間接話法とシュタインの関係から、シュタインがデュラス自身を投影しているように思わせる。シュタインが作家、もしくは作家になる途中であるというあやふやさは、文学の破壊、作家の破壊を試みたデュラスの立ち位置を表すものだ。
映画に於いてはデュラスと登場人物を演じる俳優たちの会話がオフで挿入されるが、作家自身の声を映画に響かせ、また、映画づくりにおける技巧を拒絶し、巧みなモンタージュによって滑らかなストーリーテリングを展開する伝統的な映画との差別化をはかっている。本を読んだふりをし、トランプで遊んでいるふりをする奇妙な登場人物は「空っぽの人間」というデュラスが云うところの政治的な在り方を体現し、俳優はふりをしているふりをしている人物を演じることで虚構と現実の間を彷徨う。